一介の奉公人でしかないシエスタが魔法学院の本塔を登るのは、この学院に来てから初めての事だった。基本的に仕事は厨房と食堂、それと敷地内に広がる広大な中庭位。平民用の宿舎も塔内には存在しないので、石造りの建物の内部を上へ上へと上がる体験はかなり新鮮なものだった。螺旋階段の途中で備え付けられた小さな小窓から望む光景はまるで自分が鳥になったような気分にさせられる。高い塔の上から下を覗いたらどんな感じなんだろう?と思った事はあったが、まさか本当に体験する事が出来るとは思ってもみなかった。
オリヴァー・クロムウェルという男の名が広く知られるようになったのは、そう遠い昔の事ではない。一回の司教でしかなかったこの男の存在ははゆっくりと、しかし確実に、アルビオンの一部の貴族の中に浸透していった。
最初彼は「奇跡を起こす者」として知られていた。どんな重病人も怪我人も、彼の使う魔法にかかればたちどころに治ってしまう。それどころか、死者を蘇らせたという話まである。
混乱続くホールの外、バルコニーより竜の羽ばたく音が聞こえる。
「タバサ!?」
そこに認められたのはシルフィードとタバサの姿。タバサはドレス姿のまま大きな杖を持ち、風竜を丁度バルコニーの高さに滞空させていた。
激しくぶつかり合う鋼と鋼が、赤い火花を散らし二人の男の顔を照らし、各々が突き出した剣と鉄杖がまるで絡み合うように舞踏を開始する。
最後の時を謳歌するべく設けられた祝宴の場に、どどん、と言う大きな揺れと耳障りな破砕音が響き渡る。
音は一度に止まらなかった。二度、三度、それを超えて何度も何度も続き、その度にホールは大きく揺れる。人々は倒れぬように必死になり、テーブルに乗せられた勢を凝らしたご馳走はその場より滑り落ち、床に叩き付けられ無残に飛び散った。貴族達はなんとか平静を装おうとしていたが、それでも動揺は隠し切れず、皆目を見開き驚愕のまま身を固まらせていた。哀れなのは平民の給仕達で、皆恐ろしさにただ震え抱き合うのみであった。
幼かったルイズには「許婚」という言葉の意味など判らなかった。でもその人がとても自分に優しくしてくれる人だ、と言う事は理解出来ていた。
彼女は良く叱られた。魔法が上手く出来ず、何時も何時も失敗ばかり。そんな不出来な娘を厳しい母は良く叱り付けた。上の姉二人が優秀な魔法の使い手だった事もまたそれに拍車をかけていたのだろう、母の怒りは何時も激しく、それが幼い身にはとても恐ろしくて、一人逃げ出し木陰で泣くのが習慣となっていた。
双月の光のみが世界を照らす深い闇の中、アルビオン貴族派――彼等称する所による「レコン・キスタ」――が誇る巨艦・レキシントン号の周りを哨戒する竜騎兵達がまず最初にそれを目撃した。眼下に広がる雲間より、雷が遡るかの如く昇り行く一条の影。それはニューカッスル城より高く舞い上がり、一瞬その身を留まらせた。
竜だ。青い体躯の、おそらく風竜。その背には人が乗っている。王党派の竜騎兵か? 戦場に於いて鍛え上げられた反応速度が、刹那の迷いも見せずにレコン・キスタの騎兵達を動かした。城に最も近い三騎が即座に竜の元へと、赤い矢の様に紅線を空に引き飛んでいった。
さてここで唐突に朝の寝起きランキング。
一位、タバサ。
まったく疲労を感じさせない爽やかな目覚めの模様。最も、元から表情が乏しい彼女である、仮に多少の疲労が残っていたとしても顔に出すとは考え辛いだろう。しかしてきぱきと身支度を整える様から推測するに、休養は完璧の模様。
二位、ルイズ・フランソワーズ。
多少眠そうな表情をしているものの、元気に伸びをしている姿は元気溌剌、若さに満ち溢れた力強い目覚めの姿そのもの。のろのろと着替えをする傍らで主を応援するようにふわふわ飛び回る本の使い魔がチャーミングさをアップさせているのもポイント高し。
そして本日の最下位はこの方、キュルケ・ツェルプストー。
「あー」とか「うー」とか「もうちょっとぉ」とベッドの上でごろごろ寝転がっております。転がる度にたゆんたゆん揺れる胸の双丘は、この場に男性諸君が居たら釘付け間違い無しのど迫力、男殺しのツェルプストーの面目躍如と言った所か。しかし寝起きは悪い、というかまだ起きてません。
荒くれ者どもが、必死に岩肌を駆けていた。皆必死の形相で、ひたすらに足を動かし続け少しでもあの場所から遠ざかろうと全力で走っていた。
集った時には十数人も居たその人数は、今や僅か三人にまで減っていた。
「ちくしょう、とんでもねえ餓鬼だぞ、あれは」
男の一人が息を切らせながら毒づく。
「たかが小娘一人、楽な仕事かと思ったのによ」
正味な話、舐めていたと言わざるを得ない。貴族というものは普段強者の側に立っているだけに、その余裕を崩されると以外と脆い。大抵の場合、あのように奇襲をかけた時点で九割がた仕事は終わっていると言っても過言では無かったのだ。一旦奪われたペースを奪い返す事も出来ず、無様にうろたえながら死んでゆく、それが通例だった。
しかしあの少女は違った。見事に――いや、奇天烈に、か――窮地を切り抜け、自分達を壊滅せしめた。苛立ちの中に一分の賞賛の念が浮かぶのを、止める事は出来なかった。